誰も知らないバンド・KIGA

日本語で綴るのは何年振りだろうか。

1年前の出来事が、未だに信じられない。私には永く、果てしない10年間だった。

ミクスチャーロックバンドKIGA。2002年結成。

自分も含め、20代そこらの地元の音楽仲間たちと、高校時代からずっと温めてきたバンドの構想を実現させるため、リーダーを名乗り大所帯のロックバンドとして2002年11/23の渋谷屋根裏のライヴから活動を開始。

「十年越しの自分の夢、このバンドの為ならなんでもする。」

出来る事はなんでもやった。スタジオ手配、ロケ撮影、譜面制作、ライヴハウスブッキング…勿論資金面でも管理は怠らなかった。

2003年、YAMAHA MUSICFRONTにGO WITH FLOW(http://www.muzie.ne.jp/songs/163062/)入選。地道なライヴ活動も行っていた。

だが、時はフルアルバム収録の最後のレコーディング前日。
ヴォーカリストDEJIMAは「電話でなくメールでお別れを告げるのが私の優しさと想って下さい」と突然告げ、電撃脱退。


突っ走り続けた自分の夢、でもそれは皆の夢ではなかった。


その後メンバーは自然消滅…ボーカルが居なくなればバンドは体を為さない。簡単にバンドでサクセスする夢は壊れた。

何もかもが滅茶苦茶になっていた。自分に遺されたのはメンバーたちへの憎悪、執念、混乱した感情だけだった。

何時しか自分もそんな感情を背負い込み、自責の念から破滅的なパフォーマンスを繰り返し、そしてそれすらにも疲れ果ててしまっていた。

あのバンドはもう戻ってこない…そんな諦めからKIGAの事を忘れかけてた2011年。

東日本大震災

KIGAの最後の生き残りのメンバーからのメッセージが届いていた。

「ギターは何時でも弾きたいと想ってる」

それまで一切の連絡を絶っていた最古参の仲間。無期限活動休止宣言から8年が過ぎていた。

結婚もしていた。きっと心境の変化があったのだろう、思わずの本音だった。

そして再会してから1年近く、普通の人間関係を取り戻すべく過去のリハビリが続いた。

あの頃の人間関係、皆が才能に驕り、傲岸不遜になった。

協力しあっていながら、お金の話になれば簡単に亀裂が走る…まして大学卒業したてぐらいの青二才たち。過酷な現実を共闘する覚悟などある筈もなかった。

「よく殴りあいにならずに頑張ったもんだ」「あのままやってたら全員、人間不信に陥ってたよ」―悔恨、懺悔、そして再生へ。

自分たちの歩幅をわきまえた年齢、相応のグルーヴをゆっくり取り戻した。

2013年9月。

KIGAは、ラストレコーディングに「復活」していた。何もかもが10年前と同じ光景だった。

2013年12月。

あの時と同じように。KIGAはDIYでPVを撮り、スタジオに向かい、その全てを慈しんでいた。

メンバー(今は”元”がつくが)と邂逅した時間、ずいぶんと手厳しい発言をくりかえした。「レコーディングは甘くない」「10年前のレベルに戻せ」「また逃げるのか」−今思えば、全て有終の美の為の言動だった。



全活動を終え、大森駅での軽いミーティング…これが最後だとは分かっていたのか、我々は言葉にならない想いを抱えていた。
”終わったんだ…やっとこの10年間の、KIGAへの、青春への憎悪が…”


解散宣言は、ツイッターで静かにたった一言、「おつかれさまでした」。


それまで何も言わなかったが、最早察していたのだろう。「お疲れ」―あっさりしたものだった。


KIGAのギタリストは去年、気が付いていたのだろうか。終わってなかった青春を。やり残した宿題があったことを。帰る事の出来ない放課後が続いていたことを。

私はこれから、このバンドが自分たちの手を離れ、歴史と言う名の旅を始めるのを見届けなければならない。


とほくまでゆくんだ、KIGA。