対岸の慕情は無価値に等しい

昔から思うこと。

「あなたは何か困ってそうで、いつも大変そう。
苦しいでしょうけど良く思ってくれてる人はきっといる。安心して。」

などと言う仲間はかつて色々いたが、彼らは自分の人生がどうなろうと知ったこっちゃないし、寧ろ自分が地獄に落ちてもっと落ちぶれたほうが更に彼らを楽しませる結果になるだろうというくらいに、”他人”だったりする。

私は”同情します”、”応援してます”という言葉は一切信じない。そういう連中に一言あるなら、

「同情するなら金をくれ!」だ。

善意の言葉は、多少の気休めにもなるが、善意は例えば今みたいな自分の台詞で簡単に崩れ落ち、悪意にすげ変わる。

SMと同じ理屈でもある。だから愛とかいう観念を造り出したキリスト教に君らは騙されてるんだ、とか思ってしまう。

ま、そんなこと言っても君は理解できないだろうな。


もともと愛と憎しみは同じものだ。だから絶望と希望も同じものだし、孤独と世界も同じもの。SMの場合、縄で縛られて拷問と同じ事をされてるのに被虐者は媚声をときにあげるだろ?人間っつうのはそういう浅ましい生き物なんだよ。

「あなたを好きだと想い続けてる自分が好き」なだけ。実際の”あなた”がどうなろうと知ったこっちゃない。世界の真実だね。全ての利他的とされる活動は実は利己的な動機に基づいているんだ。

ま、その利己的な動機によって世界は最古の文明が生まれた9000年前よりほんのちょっとはよくなってるってのも事実。これはさすがのKIGASも認めるしかない。

分る?わかんねぇだろうな。